質問と回答

機能資本家が得る真の利潤は,儲けから賃金を差し引いたもの,つまり工場などの私的所有による収入であると話があったが,機能資本家は労働をする資本家であるという点において労働の対価である賃金に加えて,資本家としての私的所有による収入を得るという理解でいいのか? また,真の利潤とあったが資本家に雇われる立場である労働者の真の利潤とは何か?

「機能資本家は労働をする資本家であるという点において労働の対価である賃金に加えて,資本家としての私的所有による収入を得るという理解でいいのか?」──その通りです。

「資本家に雇われる立場である労働者の真の利潤とは何か?」──労働者としては賃金を獲得するのであって,利潤を獲得することはありません。もしこの労働者が利潤の一部を賞与として獲得するとしても,それは量的には利潤の一部ではあっても,質的にはあくまでも労働報酬として獲得されるべきもの,つまり賃金です。

もちろん,この労働者が自分が勤務する会社の株主であり,配当を受け取る場合には,この労働者はこの配当を利潤として獲得することになります。

ストックオプションを行使した場合には,やや話が複雑になりますね。一般に,株価が権利付与時よりも権利行使時の方が高い場合にはストックオプションの行使によって儲けが生じますが,形式的にはこれは転売益であり,転売益は商業利潤です。しかし,自分が勤務していない会社の株式の転売益の場合には名実ともに商業利潤なのですが,ストックオプションの行使による転売益は賃金を補完し,賃金とともに労働するインセンティブを高めるものであり,したがって実質的には賃金の付与分と考えていいと思います。

貨幣資本家と機能資本家が別れるのが所有と経営の分離というのか?

『7. 経済学と株式会社』で見るように,一応,この講義では,資本主義の一般的本質である所有と機能との分離と,資本主義の特殊的現象であるバーリ=ミーンズ流の「所有権と支配との分離」とを区別し,所有と機能との分離というフレームワークで株式会社を説明しています。で,「所有と経営の分離」と言う場合には,バーリ=ミーンズ流の「所有権と支配との分離」をイメージすることが多いと思います。

その上で言うと,株式会社においては,所有と機能との分離は機能資本家が原則として消滅します。貨幣資本家の方は株主として,日常の経営執行には全くタッチせずに株主総会にしか出てこない(通常は委任状を提出して株主総会にさえ出てこない)ようになります。資本機能の方は資本家ではない専門的経営者が担うようになります。

株式会社が倒産した場合,株主は株券を当初購入した額で払い戻されることはない。その場合においても株主は貨幣資本家と言えるのか。社債を保有していた場合は同じくどうなるか。

倒産時に債務超過で残余財産が全く存在しなくても,株主は貨幣資本家と言えます。他に資本家(資本の私的所有者)がいないからです。そもそも倒産時点において多くの株主は,流通市場で株式を他の株主から転売されたのですから,資本金の払い込みさえ行っていません。それでも,形式上では,株主が貨幣資本家です。

社債保有者はどうかと言うと,形式上では,これはこれで貨幣資本家なのですが,但し株主とは全く意味を異にします。株主は当該会社の貨幣資本家です。これに対して,社債保有者は当該会社の債権者にすぎず,当該会社の貨幣資本家ではなく,社債という貸付資本を保有しているという意味での貨幣資本家です。要するに,社債保有者は当該会社に貸付資本を貸し付けており,したがって当該貸付資本(この場合には証券形態を取っている)の私的所有者にすぎません。

以上,形式上の話をしました。実質上の話をすると,講義で強調したように,株主は当該会社の資本家とは言っても,私的所有の原理を逸脱しています。従って,実質上の話をすると,優先株の保有者と劣後債の保有者との間にある違いは,程度の違いにすぎません。

銀行は預金を貸出によって運用している。これは預金者が預金を所有していると言えるのか?〔……〕銀行と預金者によって共有されているということなのか?

市場社会では,信用売買を通じて私的所有権が物権的権利と債権的権利とに別れるということが必然的根拠をもつようになり,また一般化します。そもそも私的所有権は物権的権利そのものですが,それがいまやこのような分裂した,発展した形態に進化するわけです。

現代的な貸付もこの構造を引き継いでいます。一方では,預金者は預金を債権という形で私的に所有しています。他方では,銀行は受け容れた預金を自由に処分することができ,この意味で私的に所有しています。この預金が現金形態で払い込まれたものだろうと,他行からの振替(日本の銀行用語では振込)だろうと,話は同じです。

今存在する企業規模が大きい会社で機能資本家が中心として経営が行なわれているような企業は存在するのか?

ほとんど存在しません。トヨタなんかでは創業家の一族が経営者になっていますが,機能資本家として経営者になっているわけではありません。

機能資本家が所有している資本が貨幣資本家が運営し,所有が分離している資本であっても機能資本家として成立するのか?自分の思い込みでは,機能資本家の資本は自分で所有しているものを運用して経営をおこなっているイメージなので,株式で集めた資本なども資本に含めてよいのか気になった。

「機能資本家が所有している資本が貨幣資本家が運営」というのは逆(書き間違い)なのでしょうか? 「機能資本家の資本は自分で所有しているものを運用して経営をおこなっているイメージ」──その通りです。たとえ仮に全額借入資本だったとしても,借り入れた貨幣の自由な処分権は借り手にありますし,ましてこの貨幣で購買した工場はまぎれもなくこの機能資本家の私的所有物です。

〔貸付資本について〕「[制限の未克服(1)]」(第4ページ)の「どちらの制限も,株式会社では克服される。」とはどういうことか?そしてなぜ株式会社だと克服されるのか?

「どういうことか?」──大規模公開株式会社の必然的形態では資本機能の媒介者は通常は専門的経営者になるから(現実資本の私的所有者は会社になる)。また,こうして資本機能の媒介者が専門的経営者になると,その収入は原理的に賃金になるから。「なぜ克服されるのか?」──株式会社がそういう制度的形態だから。

〔貸付資本について〕「[制限の未克服(2)]」(第4ページ)の「どちらの制限も,銀行制度・株式会社では克服される。」とはどういうことか?

銀行制度では,預金設定を行おうと行うまいと,貸付は預金に基づいており,預金は社会から多数の経済主体の金を集めたものだから。大規模公開株式会社では,市場で株式を販売し,こうして多数の株主が存在するから。

資本家が姿を変え,分かり辛くなったことによって明確な敵がいなくなり,労働者が団結し辛くなってより搾取に抵抗できなくなっているのだと,〔……〕改めて感じた。

確かにそれは一面です。しかし,別の面もあります。現代資本主義の問題点というのは,確かに抽象的でわかりにくくなったという一面がありますが,しかしまた同時に,そういうわかりにくいシステムこそが問題を生み出しているのだということ自体はむしろわかりやすくなっています。すなわち,いまや労働する個人と対立しているのは,資本家という人格でもなければ,労働者の雇用を奪う機械設備という物でもなく,資本という──会社という──物件のシステムであり,また数多くの会社から成り立っている資本主義社会という社会的なシステムです。もちろん,経営陣と平社員とでは利害が対立することが多いでしょうが,しかしどちらも会社に従属しているということに変わりはありません。そして,このようなシステム(=生産関係)を産み出しているのは,資本家でもなければ政治家でもなければ宗教家でもなく,当の労働する個人です。労働する個人が自分たちの首を絞めるシステムを自分たち自身で産み出しているというのがはっきりしています。逆に言うと,自分たちの他の誰か/何かに悪者のレッテルを貼って,資本家を殺したり,機械設備を打ち壊してもなにも変わらないということもはっきりしています。システム(=生産関係)が存在している限り,そんなことをしても,別の誰かが資本家になったり,別の何かが資本になったりするだけの話です。