このページは,立教大学 経済学部 応用社会経済学1の2017年06月27日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
あります。そして科学的知識の意識的・計画的適用の以前には,それが普通でした。
しかし,科学的知識の意識的・計画的適用の下で,機械設備が導入されると,講義で述べたように機械設備の体系性によって労働の社会的編成が規定されます。それゆえに,経営者の判断
の余地は小さくなります。
だからと言ってなくなるわけではありません。講義で見たように,機械設備の体系性によって労働の社会的編成が規定されても,チームプレイのしかたには改善の余地があるのです。
存在します。『7. イノベーションの構成要素(2)』の「中世的熟練と資本主義熟練」(第3ページ),「不熟練労働力の形成 不熟練労働力の形成 (1)」(第7ページ)~「新しい熟練形成とその置換」(第8ページ)をご覧ください。
医者に限らず,現代的な大規模産業においても,経験的知識が不要になるわけでは決してありません。但し,どっちが主流的・支配的・必然的になるかと言うと科学的知識の方になるわけです。0か100かという問題ではなく,10か90かという問題です。
で,本題ですが,臨床医なんかは経験的知識の役割が研究医よりも大きくなるでしょう。
『オートメーションとIT化』でやりましたが,基本的に変化しません。むしろ,それは労働の概念の実現であり,したがってまた協業,権威といった
ものの概念の実現です。そもそも労働と自分の手を直接的には汚さずに,自分の周りの自然を思うように動かして,自分が望んだ結果を得るものなのです。
一般に,会社は営利社団法人であるという意味では,会社法人は法人の一種です。
今日では「法人」と言うと,自然人格でないものが,法的擬制によって人格を付与されたもののことを意味しますが,もともとは法人は法的人格のことであり,社会的に,結局のところは法的に承認された人格のことです。もともとは法的人格であるためには自然人格(生きた人間)であるということが必要でした。
この講義の考え方では,会社というのは資本家の人格的結合であり,それを通じて実現された資本結合であり,それを通じて実現された所有と機能とが完全に分離した実物資本であり,社会的承認以前に事実そのものにおいて成立しています。会社法人は,このような実物資本が法的人格として社会的に承認されたものです。
いま仮に,自然を対象にするのが自然科学,社会を対象にするのが社会科学,人間意識を対象にするのが人文科学だとすると,明らかに人文科学は科学です。
上の定義では,例えば論理学も数学(より広く記号論理学に包摂することができる限りでは,数学も論理学の一分野です)も人文科学に含まれるしかありません。と言うのも,それらが対象としている論理も数も意識の外にある自然でもなければ社会でもなく,われわれの意識の中にしかないからです。それらが科学であるということを否定する人は少ないのではないでしょうか。
さて,人文科学はもう少し高度な対象も扱っています。例えば,文学なんてやたらに複雑で高度な対象を扱っています。それに較べれば,経済学の対象なんて子供の遊びのようなものですし,物理学なんて赤子の遊びのようなものです。
そして,対象が高度であればあるほど,それを対象とする個別科学の発展は遅れることになります。しかし,上記の特徴からして,科学はあらゆる存在を対象とし得るはずであって,例えば文学の対象も対象として存在している以上,当然に科学の対象となり得るわけです。当該科学の発展度合いと,当該科学がそもそも科学たり得るのかという問題とは分けて考えなければなりません。
組み込まれますし,組み込まれすぎると再び置き換えられます。『7. イノベーションの構成要素(2)』の「新しい熟練形成とその置換」(第8ページ)をご覧ください。
高くなるのは投下された労働が多い,つまりコストがかかっているからです。
ブランドがつくのは何故かというより,ブランドがつかないと売れないのです。コモディティ(大量生産可能な普及品)よりもコストがかかっている工芸品が売れるためにはブランド力が必要なのです。つまり,より多く投下された労働が社会的労働として通用するためには消費者が高くても買う要因が必要なのです。その場合のブランド力は高い品質を保証するものであっても,全く幻想的なものでも同じ効果を持ちます。但し,長期的に考えると,ブランド力としてはやはり高い品質を保証するものを想定しなければならないでしょう。
個人は公開した状態でコツやカンを体得したわけではありませんし,また通常は公開するのが困難です。コツとカンとして現れている熟練労働を力学的に解体して,公開された知識で置き換えるのが機械設備の意義です。ただし,当該生産過程の外部から公開された知識を,したがって機械設備を導入するだけでは不十分であって,当該生産過程の内部で当該生産過程に特有なコツとカントを公開しなければならない問いのがビデオの内容でした。また,この問題は『6. 生産力の上昇』の「2.1 コストとリスクの私的負担」に絡んでいる問題でs。
労働者自身が意志を持って労働しているのですが,その意志を資本は業務命令として個人に押し付けています。賃金労働が奴隷労働でない限り,個人が嫌々だろうと嬉々としてだろうと「俺がやるぜ」と思っているのですが,それを会社が吸い取って,「お前これやれ」という会社の業務命令として個人に押し付けています。
そして,「俺がやるぜ」というのが多数の同僚が参加している社会的労働過程の一環として行なわれている以上,社会的労働過程全体の調和も──「俺Aがやるぜ」と「あたしBがやるよ」との調和も,すなわち「みんなこうしてうまいことやろうよ」も──当然に個人の意志から生まれるものです。そして,黙示的ではあっても,そのような権威を各従業員が生みだしています(もちろん実際に細かい調整を行うのは管理労働者(取締役とか)ですが,しかしそのような管理労働者の必要性自体が,労働する個人たちが当該労働過程において産み出したものです)。しかしまた,そのような権威を吸い取っているのは会社であって,会社が,会社の業務命令として,会社の職制を通じて,これを従業員に押し付けているわけです。
違います。科学的知識の意識的・計画的適用によって,道具が機構(mechanism)の道具になり,労働手段それ自体が機構になっているのが機械(machine)です。機械が一つのシステムをなして,生産過程全体を包摂しているのが機械設備(machinery)です。