このページは,立教大学 経済学部 政治経済学1の2016年06月21日の講義内容について,リアクションペーパーで提出された質問への回答のページです。
質問の引用に際しては,表現を変えたり,省略したりすることがあります。
回答は,一般論を述べているものではなく,あくまでも講義内容を前提したものです。つまり,講義を聞いているということを前提にして,論点をはしょったりしています。
全く例外的なケースを考えると,たとえば協業によって個人の能力そのものの向上しか生じない場合や,そもそも個人では質的に達成不可能な仕事しか観測されない場合もあるでしょう。しかし,前者の場合には個人の能力の向上は組織の中でのみ生まれるものですし,後者の場合も量的な数値で計測されないだけで,実際には組織の力は個人の力を越えているわけです。したがって,ここでは,このような例外的なケースも,組織の力が個人の総和を量的に超える場合に含めて考えましょう。
労働者を単に寄せ集めただけでは個人の総和を量的に超える組織の力
は生まれません。そして,労働者を単に寄せ集めただけでは協業になりません。それゆえに,協業が成立している限りでは,個人の総和を量的に超える組織の力
が生まれると考えることができます。
あります。講義で述べたとおりですが,要するに単純協業の場合の協業の利益が分業の利点に含まれない協業の利点
です。わかりやすい例ではバケツリレーとか1トンの岩の移動です。
え? もっとまともな例を挙げろって? シャツメーカーの裁縫工場で裁縫していて3着先に縫い終わった人が他の人の生産物を持って行き,他の人の分まで綿布を持ってくるとかです。ここで注意が必要です。
分業に基づく協業の場合にも,ましてや現代的大規模産業の場合にも,部分部分をとってみると,単純協業です。ベルトコンベアの前で,それぞれ車体を組み立てている労働者たちは,機械設備を通じて企業内協業してはいますが,しかるに決して企業内分業してはいません。しかしまた,工場間を考えてみると,企業内分業が成立しています。
裁縫している人が運搬したら分業しているかのように見えるかもしれませんが,実際にはこれは役割分担ではありません(裁縫の専門化と運搬の専門化とが分かれているわけではありません)。従って,この場合には,異なる労働をしていても,まだ生産様式としては単純協業の域を脱していません。
単純協業の場合には,分業は崩壊
しています。そして,単純協業そのものは現代的産業においても,さらには分業に基づく協業においてさえ,再現します(分業における協業でも,たとえば裁断部門と裁縫部門とが分業していても,裁断部門の中を見てみると,みな同じように裁断をおこなっているかもしれない,つまり単純協業しているかもしれない。)。
もちろん見込めます。競い合いのところを参照してください。ただし,分業のように,分業そのものによってシステマテッィクかつ必然的にスキルが向上するというわけではありません。
もう少し質問を絞ってください。
まず大前提として,この講義では熟練労働と複雑労働とは区別されています。熟練が品質に現れることはもちろん大いにありえますが,品質については基本的に一定品質以下のものが生産管理を通じて排除されると,資本主義的生産における熟練の問題は,基本的に数量の問題に還元されます。
で,ケースバイケースだと思います。協業のところで強調したように,社会的労働の成功は計画と権威とに依存します。したがって,管理労働が上手くいかないと,不熟練労働が足を引っ張って突出した熟練が生きないことになりますし,上手くいくと突出した熟練を生かすことができ,かつ熟練労働者が不熟練労働者を引っ張っていき底上げすることになります。
以上,ケースバイケースの議論をを前提した上で,一般論を申し上げると,そもそも大規模協業は能力の均等化をもたらす傾向にあります。最低限の能力を持った労働者を雇っていれば──その限りでは労働者の能力を揃える
ということになりますが──,また熟練形成に対して業績給などで適切なモティベーションを与えることができていれば,一方では不熟練労働者が急速に熟練していき,他方では熟練労働者の能力上昇は逓減していき,たえず均等化の方向に向かって,しかも底上げの方向に向かって,熟練形成は進行していくはずです。
必ずしもそうではありません。一面的発達による熟練が労働力の単純化を意味する限りでは,間違いなく人件費のコストダウンに繋がりますが,そこから次第にヒューマンコスト──人件費だけではなく,ヒューマンエラーのコストをも含みます──が増大していきます。そしてなによりも,一面的発達では機械設備に対抗することが出来ません。
一般論を言うと,同じ労働手段上では,性能の上昇が逓減していくと言えます。
これは難しいですね。需要側の態度如何です。例えば,職人がかつて生産したものであっても骨董品にはコスト原則が働きません。それと同様に,芸術生産物は,オンリーワンのものであって,コスト原則の埒外にあります。浮世絵版画やエッチングの場合にでさえ,オリジナルの生産物が芸術品である限りでは,そういうことになります。
半芸術的から芸術的に格を上げるケースもあるはず。
──その通りです。例えば,絵画なんかは,中世では多くの場合に世襲の職人仕事でした。才能のいかんに関わりなく,徒弟期間とOJTの熟練とを通じて,かなりの品質の職人的な,半芸術的な生産物が生産されえたわけです(もちろん,その中でも後世の評価において芸術的生産物として評価されるものもあります)。ただし,職人仕事である限りでは,自分の内的な創作意欲の発露というよりは,発注者の注文に応えるという側面が強いでしょう。またそうである以上は,特別な個性と才能の発揮というよりは,注文にきちっと合わせた一定の安定した品質が求められたことでしょう。
このように,基本的には半芸術的=職人的生産というカテゴリーの内部で,半芸術的=職人的な生産と芸術的な生産とが混同していた時代から,近代化の流れの中で,両者が相対的に分離されて,芸術的生産が固有の分野として確立し,芸術家が職人から区別されるようになったのだと思います。
厳密に言うと違います。レジュメ『10. 生産力の上昇』の第22ページをご覧ください。ただし,この講義は,両者を区別しないで使っています。
コストを別にすると,基本的に,デメリットは分業のデメリットではなく,むしろ分業の失敗です。メリットが生まれたときに分業が成立しているので。
分業の失敗にはいろいろなものがありますが,わかりやすい例を挙げると,セクショナリズムとか,上流から下流への生産在庫の滞留とかです。
その通りです。
おっしゃる通りだと思いますが,そもそも地域の産業活性化の一助
ということは企業内分業の観点から生じる利点ではありません。むしろ,たとえ企業内で乳牛育成と牛乳生産とを兼ねる企業があるとしても,このような利点は社会的分業に属すると考えるべきでしょう。企業内分業の観点からは,分業の利点は直接的にその企業の収益性に結び付くものでなければなりません。
人間社会自体が分業と考えれば
というのは社会的分業をイメージしているのでしょうか? 大まかな流れとしては,職人の技能のプログラム化が進行すると思います。
そうとは限りません。単純協業の方が効率的かもしれません。その場合には,分業ではなく,分業の失敗が生じています。
いくらでもいるでしょう。特に,労働が細分化されれば細分化されるほど,全体との関連はイメージしにくくなるでしょう。
そういう問題が生まれることが大いにありえます。
必ずしもそうとは限りません。生産物の内容によります。ただし,労働者の数が少ないときは
企業内部での社会的労働の細分化による単純化があまり望めないから,企業内分業における熟練
も狭い限界に留まるでしょう。
その通りです。協業や科学的知識の意識的・計画的適用がそうであるのと同様に,分業もまた必ずしも成功するとは限りません。
他の分野においては応用できない個別性のあるものなのか?
──その通りです。
科学的知識は論理的にできるものだから体系的なのか?
──最終的にはそういうことになります。要するに科学は論理的な体系をなしています。しかしまた,それはそれで,現実そのものが体系をなす一つのシステムだからです。
こんにちでは,科学的知識の意識的・計画的適用が主役を演じるのであり,その意味で重要
です。それ以外は不可能というわけではありません。特に熟練の形成については,分業のところでも見たように,経験的知識の形成が必須
です。
個人のテクニックに対して,テクノロジーが特徴になるのが現代的な大規模産業です。
ただし,個人のテクニックをテクノロジー化するというのは現代的な大規模産業の基本的な内容ですが,すべてではありません。労働編成にもテクノロジーが応用されますし,形式論理的なプロセスそのものもテクノロジー化されます。そういうのを全部ひっくるめて,テクノロジーが特徴になっているわけです。
人間の熟練とは比較にならないほどのスピードで機械は作業を達成します。したがって,置き換えると言っても,その点では,通常,最初から機械は人間を越えています。そして,機械を生産するのは常に人間です。AIのプログラムを組むのも人間です。AIが別のAIによってプログラムされるようになったら,AIのプログラムを組むAIのプログラムを組んだのは人間です。
どちらが格上ということはありません。ただし,経験的知識も分析されて科学的知識になります(その意味では完全に分かれているものではありません)。逆はありません。
知識の体系でしょうか? 体系そのものは増えていきます。
ご指摘どうもありがとうございます。ただ,逆ではありません。
恐らく逆だと感じるのは「職人」という言葉で中世の職人や,現代の半芸術的な職人を想起してしまっているのではないでしょうか。中世の職人や,現代の半芸術的な職人の場合には,複雑労働力かつ熟練労働力ですから,熟練労働力としてon the jobで体得していくのとともに,複雑労働力として長い徒弟期間・修行期間が必要になります。
しかし,ここでは,資本主義の内部の話をしています。したがって,ここで言う「職人モデル」とは,もっぱら現代の熟練労働者を想定しています。そして,熟練労働者は自分の能力(労働力)を主として──もっぱら,ではありません──on the jobで体得しているのです。
科学的知識の体系性の問題ですよね? 科学そのものに即しては,横のつながりを維持するのが困難にならない
と言えます。しかし,科学を生産しているのは主として科学者です。科学者に即しては,専門化が進みすぎると,横のつながりを維持するのが困難にな
ります。研究のタコツボ化と言います。要するに,専門分野の内部を考えると,体系から切り離されて専門に特有なトピックスしか行わないようになります。また,専門間を考えると,余りに専門的になりすぎると,他の専門がチェックすることができなくなります。しかし,これは科学の体系性そのものの問題ではないのです。むしろ,科学の体系性から専門化した科学者が切り離されてしまっているという問題なのです。
熟練の破壊,再形成,再破壊については,『7. イノベーションの構成要素(2)』の「不熟練労働の形成」(第6ページ)~「新しい熟練形成とその置換」(第7ページ)をご覧ください。
科学的知識だから公開されるのであって,公開されていればなんでも科学的知識というわけではありません。それを前提とすると,公開前の科学的知識というものを考えることができます。