1. 企業内協業

個人の総和を量的に超える組織の力は絶対的なものか? 大小の差はあれど絶対産出されるものか?

全く例外的なケースを考えると,たとえば協業によって個人の能力そのものの向上しか生じない場合や,そもそも個人では質的に達成不可能な仕事しか観測されない場合もあるでしょう。しかし,前者の場合には個人の能力の向上は組織の中でのみ生まれるものですし,後者の場合も量的な数値で計測されないだけで,実際には組織の力は個人の力を越えているわけです。したがって,ここでは,このような例外的なケースも,組織の力が個人の総和を量的に超える場合に含めて考えましょう。

労働者を単に寄せ集めただけでは個人の総和を量的に超える組織の力は生まれません。そして,労働者を単に寄せ集めただけでは協業になりません。それゆえに,協業が成立している限りでは,個人の総和を量的に超える組織の力が生まれると考えることができます。

分業の利点に含まれない協業の利点は存在するか?

あります。講義で述べたとおりですが,要するに単純協業の場合の協業の利益が分業の利点に含まれない協業の利点です。わかりやすい例ではバケツリレーとか1トンの岩の移動です。

え? もっとまともな例を挙げろって? シャツメーカーの裁縫工場で裁縫していて3着先に縫い終わった人が他の人の生産物を持って行き,他の人の分まで綿布を持ってくるとかです。ここで注意が必要です。

  • 分業に基づく協業の場合にも,ましてや現代的大規模産業の場合にも,部分部分をとってみると,単純協業です。ベルトコンベアの前で,それぞれ車体を組み立てている労働者たちは,機械設備を通じて企業内協業してはいますが,しかるに決して企業内分業してはいません。しかしまた,工場間を考えてみると,企業内分業が成立しています。

  • 裁縫している人が運搬したら分業しているかのように見えるかもしれませんが,実際にはこれは役割分担ではありません(裁縫の専門化と運搬の専門化とが分かれているわけではありません)。従って,この場合には,異なる労働をしていても,まだ生産様式としては単純協業の域を脱していません。

2. 企業内分業

分業と協業のどちらか片方だけが崩壊し,形式として消滅することはあるのか?

単純協業の場合には,分業は崩壊しています。そして,単純協業そのものは現代的産業においても,さらには分業に基づく協業においてさえ,再現します(分業における協業でも,たとえば裁断部門と裁縫部門とが分業していても,裁断部門の中を見てみると,みな同じように裁断をおこなっているかもしれない,つまり単純協業しているかもしれない。)。

分業の利点としてスキルの向上が上げられていたが協業の場合にも向上は見込めるのではないか?

もちろん見込めます。競い合いのところを参照してください。ただし,分業のように,分業そのものによってシステマテッィクかつ必然的にスキルが向上するというわけではありません。

協業と分業の差異とそのメリットと生産手段の関連性の部分に詳しい説明が欲しい。

もう少し質問を絞ってください。

分業の件だが,作業自体に熟練が必要(≠単純作業)かつ,全行程が次の工程の出来に影響を与える場合,品質のばらつきがでると思う。分業そのものに私は疑問だが,労働者の能力を揃えるところから始めないとうまく機能しないのではないか?

まず大前提として,この講義では熟練労働と複雑労働とは区別されています。熟練が品質に現れることはもちろん大いにありえますが,品質については基本的に一定品質以下のものが生産管理を通じて排除されると,資本主義的生産における熟練の問題は,基本的に数量の問題に還元されます。

で,ケースバイケースだと思います。協業のところで強調したように,社会的労働の成功は計画と権威とに依存します。したがって,管理労働が上手くいかないと,不熟練労働が足を引っ張って突出した熟練が生きないことになりますし,上手くいくと突出した熟練を生かすことができ,かつ熟練労働者が不熟練労働者を引っ張っていき底上げすることになります。

以上,ケースバイケースの議論をを前提した上で,一般論を申し上げると,そもそも大規模協業は能力の均等化をもたらす傾向にあります。最低限の能力を持った労働者を雇っていれば──その限りでは労働者の能力を揃えるということになりますが──,また熟練形成に対して業績給などで適切なモティベーションを与えることができていれば,一方では不熟練労働者が急速に熟練していき,他方では熟練労働者の能力上昇は逓減していき,たえず均等化の方向に向かって,しかも底上げの方向に向かって,熟練形成は進行していくはずです。

企業内分業で行き着く先に労働力が一面的発達してしまうということだったが,これは悪いことなのか?雇用者側(権威)からすると,労働力の一面的発達は労働力が他の仕事に移動するリスクが減り,詰まるところでは人件費のコストダウンにつながるため,メリットが多いように思われる。

必ずしもそうではありません。一面的発達による熟練が労働力の単純化を意味する限りでは,間違いなく人件費のコストダウンに繋がりますが,そこから次第にヒューマンコスト──人件費だけではなく,ヒューマンエラーのコストをも含みます──が増大していきます。そしてなによりも,一面的発達では機械設備に対抗することが出来ません。

労働手段の専門化について。例えばパソコンはここ10年ですさまじい進化を遂げたけど,糸切りばさみはそんなに変わっていない。これは何故か? 進化の限度って何で決まる?

一般論を言うと,同じ労働手段上では,性能の上昇が逓減していくと言えます。

半芸術的な熟練と芸術の根本的な違いは? 例えば絵を描くことを職業にしていても,複雑労働であることや,徒弟期間が必要であることは半芸術的な熟練と違わない。半芸術的から芸術的に格を上げるケースもあるはず。

これは難しいですね。需要側の態度如何です。例えば,職人がかつて生産したものであっても骨董品にはコスト原則が働きません。それと同様に,芸術生産物は,オンリーワンのものであって,コスト原則の埒外にあります。浮世絵版画やエッチングの場合にでさえ,オリジナルの生産物が芸術品である限りでは,そういうことになります。

半芸術的から芸術的に格を上げるケースもあるはず。──その通りです。例えば,絵画なんかは,中世では多くの場合に世襲の職人仕事でした。才能のいかんに関わりなく,徒弟期間とOJTの熟練とを通じて,かなりの品質の職人的な,半芸術的な生産物が生産されえたわけです(もちろん,その中でも後世の評価において芸術的生産物として評価されるものもあります)。ただし,職人仕事である限りでは,自分の内的な創作意欲の発露というよりは,発注者の注文に応えるという側面が強いでしょう。またそうである以上は,特別な個性と才能の発揮というよりは,注文にきちっと合わせた一定の安定した品質が求められたことでしょう。

このように,基本的には半芸術的=職人的生産というカテゴリーの内部で,半芸術的=職人的な生産と芸術的な生産とが混同していた時代から,近代化の流れの中で,両者が相対的に分離されて,芸術的生産が固有の分野として確立し,芸術家が職人から区別されるようになったのだと思います。

分業の固有の利点のところで,労働手段の細分化と2ページにはあるが,3ページのところでは労働手段の専門化とある。これは細分化と専門化は同じような意味で捉えて良いのか?

厳密に言うと違います。レジュメ『10. 生産力の上昇』の第22ページをご覧ください。ただし,この講義は,両者を区別しないで使っています。

分業によるメリットを学んでいるがデメリットには何があるのか?(コストなど以外に)

コストを別にすると,基本的に,デメリットは分業のデメリットではなく,むしろ分業の失敗です。メリットが生まれたときに分業が成立しているので。

分業の失敗にはいろいろなものがありますが,わかりやすい例を挙げると,セクショナリズムとか,上流から下流への生産在庫の滞留とかです。

分業により一人ひとりの専門としての労働能力は上昇するが,一人では何ひとつ作れないということから,労働者としての価値はいささか下がっているように感じた。

その通りです。

〔企業内分業の利点としては,講義で挙げたもの以外に,〕得意分野や専門性は“人”は勿論,“地”の利も生かすのではないだろうか? 例えば〔……〕乳牛を育てるのは北海道等がてきしているが,牛乳パックのファクトリーをわざわざ降雪地であり,なおかつ物流コストも高い北海道に作る必要はないだろう。つまり,分業によって,生産性が上がることに加えて,地域の産業活性化の一助にもなりうるのではないだろうか?

おっしゃる通りだと思いますが,そもそも地域の産業活性化の一助ということは企業内分業の観点から生じる利点ではありません。むしろ,たとえ企業内で乳牛育成と牛乳生産とを兼ねる企業があるとしても,このような利点は社会的分業に属すると考えるべきでしょう。企業内分業の観点からは,分業の利点は直接的にその企業の収益性に結び付くものでなければなりません。

人間社会自体が分業と考えれば職人の消滅は必然なのか?

人間社会自体が分業と考えればというのは社会的分業をイメージしているのでしょうか? 大まかな流れとしては,職人の技能のプログラム化が進行すると思います。

完全に分業して熟練,専門化が進んだ人たちとすべての業務を均等にできる(70~80%人たち)とで効率性を較べた時,やはり分業している方が効率的なのか?

そうとは限りません。単純協業の方が効率的かもしれません。その場合には,分業ではなく,分業の失敗が生じています。

実際,自分の作業の意味がわかっておらず,そのまま熟練してしまう人はいるのか?

いくらでもいるでしょう。特に,労働が細分化されれば細分化されるほど,全体との関連はイメージしにくくなるでしょう。

分業によって作業が単純化すると言っていたが,その際,専門バカになるというだけでなく,単純作業になることによってモティベーションが下がるという問題は生まれるのか?

そういう問題が生まれることが大いにありえます。

労働者の数が少ないときは企業内分業における熟練よりも半芸術的な熟練の人を増やす方が有効か?

必ずしもそうとは限りません。生産物の内容によります。ただし,労働者の数が少ないときは企業内部での社会的労働の細分化による単純化があまり望めないから,企業内分業における熟練も狭い限界に留まるでしょう。

〔分業に基づく協業においては,〕従業員個人の元々の能力やテクニックが乏しかったり,道具や機械が機能的に不十分のものであったら,分業に基づく協業の目的を達成するのは難しくなるのか?

その通りです。協業や科学的知識の意識的・計画的適用がそうであるのと同様に,分業もまた必ずしも成功するとは限りません。

3. 科学的知識の意識的・計画的適用

経験的知識と科学的知識のちがいで,非体系的か体系的かという差がいまいちわからなかったのだが,経験的の方は自分の経験によって得た専門性であるから他の分野においては応用できない個別性のあるものなのか? 科学的知識は論理的にできるものだから体系的なのか?

他の分野においては応用できない個別性のあるものなのか?──その通りです。

科学的知識は論理的にできるものだから体系的なのか?──最終的にはそういうことになります。要するに科学は論理的な体系をなしています。しかしまた,それはそれで,現実そのものが体系をなす一つのシステムだからです。

結局,イノベーションは経験的知識ではなく,科学的知識が必須ということなのか? 経験的知識と科学的知識はどちらの方が重要なのか? 〔同じ問題についての質問だったので,一つにまとめました。〕

こんにちでは,科学的知識の意識的・計画的適用が主役を演じるのであり,その意味で重要です。それ以外は不可能というわけではありません。特に熟練の形成については,分業のところでも見たように,経験的知識の形成が必須です。

テクニックをテクノロジー化するのが現代の産業となってくるのか?

個人のテクニックに対して,テクノロジーが特徴になるのが現代的な大規模産業です。

ただし,個人のテクニックをテクノロジー化するというのは現代的な大規模産業の基本的な内容ですが,すべてではありません。労働編成にもテクノロジーが応用されますし,形式論理的なプロセスそのものもテクノロジー化されます。そういうのを全部ひっくるめて,テクノロジーが特徴になっているわけです。

機械はあくまで熟練を置き換えることが目的なら機械が人間を越えることはないのか?

人間の熟練とは比較にならないほどのスピードで機械は作業を達成します。したがって,置き換えると言っても,その点では,通常,最初から機械は人間を越えています。そして,機械を生産するのは常に人間です。AIのプログラムを組むのも人間です。AIが別のAIによってプログラムされるようになったら,AIのプログラムを組むAIのプログラムを組んだのは人間です。

経験的知識と科学的知識は完全に分かれているもの? 経験的知識を科学的知識で表すことは不可能? またどちらが格上ということはない?

どちらが格上ということはありません。ただし,経験的知識も分析されて科学的知識になります(その意味では完全に分かれているものではありません)。逆はありません。

時代が進むにつれ,どんどん体系が増えていく?

知識の体系でしょうか? 体系そのものは増えていきます。

科学の利用と二つのモデルのページの1と2の●の3番目のOn the job…と育成に特別のコスト…が逆のように感じた。

ご指摘どうもありがとうございます。ただ,逆ではありません。

恐らく逆だと感じるのは「職人」という言葉で中世の職人や,現代の半芸術的な職人を想起してしまっているのではないでしょうか。中世の職人や,現代の半芸術的な職人の場合には,複雑労働力かつ熟練労働力ですから,熟練労働力としてon the jobで体得していくのとともに,複雑労働力として長い徒弟期間・修行期間が必要になります。

しかし,ここでは,資本主義の内部の話をしています。したがって,ここで言う「職人モデル」とは,もっぱら現代の熟練労働者を想定しています。そして,熟練労働者は自分の能力(労働力)を主として──もっぱら,ではありません──on the jobで体得しているのです。

体系性の形でどんどん分化していくと横のつながりを維持するのが困難にならないのか?

科学的知識の体系性の問題ですよね? 科学そのものに即しては,横のつながりを維持するのが困難にならないと言えます。しかし,科学を生産しているのは主として科学者です。科学に即しては,専門化が進みすぎると,横のつながりを維持するのが困難になります。研究のタコツボ化と言います。要するに,専門分野の内部を考えると,体系から切り離されて専門に特有なトピックスしか行わないようになります。また,専門間を考えると,余りに専門的になりすぎると,他の専門がチェックすることができなくなります。しかし,これは科学の体系性そのものの問題ではないのです。むしろ,科学の体系性から専門化した科学者が切り離されてしまっているという問題なのです。

熟練労働者の人件費の高コスト体質に対して科学的知識を用い,熟練を解体し,機械設備で置き換えていたが,この機械設備での置き換えが進んでいくと,熟練はどんどん消えて言ってしまうのか?

熟練の破壊,再形成,再破壊については,『7. イノベーションの構成要素(2)』の「不熟練労働の形成」(第6ページ)~「新しい熟練形成とその置換」(第7ページ)をご覧ください。

情報の公開性について,科学的知識には公開されていない情報はやはりあるのか?

科学的知識だから公開されるのであって,公開されていればなんでも科学的知識というわけではありません。それを前提とすると,公開前の科学的知識というものを考えることができます。